一人追悼式典

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今日は本当に個人的すぎる日記凉
完全なる一人追悼式典。


先日北京に行ってきた。

亡き父の遺灰を生前大好きだった(はずの)
中国の大地に散骨するためだ。

とはいっても親父は一度として海外には行っていない。(はず)

最後に会ったは自分が中学2年のときだから
それ以上のことはわからないが。

こうなった経緯は今から5年前
2002年だっただろうか・・
いつものように新宿のマルハンの地下でスロットをしていた僕
大好きだったアラジンで勝利した後だったと思う

店から出たとたんに群馬に住む母からの電話。

珍しいじゃん

そう思って電話に出ると

今 大丈夫? あのね、あのね。。。

数秒の間があり

アキラがが自殺したって・・・

突然おかんの口から出てくる信じられないような言葉。

一瞬何が何だかわからない。

目の前が真っ暗とか 悲しいとかどうとかではなく
ただ一瞬全てが空白になったような時間が過ぎる

しかし 同時に
心のどこかで

やっぱりなぁ。。。

と納得している自分もいた。

親父と過ごした時間は長くはなかったが
子供ながらに感じていたこと
それは
親父が地球生活に向いていないということ
 
よく言えば 無欲で 精神を磨くことを最優先し

悪く言えば 無力で 生活力がなく 現実逃避

正直
離婚するまでの間
おかんに昼も夜も働かせて
水商売までさせて自分は小遣いをもらい

いくら腰が痛いからといって
仕事をしないで家でテレビを見ながら
俺をストレスのはけ口として
時には人格を豹変させて僕に殴りかかった親父に

幼少時の僕が
負の感情を抱かないでいようとすることは
そんなに容易ではなかった。

僕のおかんに苦労ばかりかけた
どうしょうもないダメ親父

そう思った時期がなかったといえば嘘だ。

もしかすると
もしかしないかもしれないけど

幼少期から中学時代まで抱いていた
僕の中での

男性に対する嫌悪感と不信感・・・・

これは親父の影響がなかったとは言い切れないだろう。

父親としてのプライドとか
男としての意地とかはないんか!!

そう思っていたに違いない。

僕が自分の性別に違和感は3歳からで
親父の実態を知ったのは早くても9才とかだから

そこの部分での影響はわからないが

僕が女として生きていこうと努力していた時期
男の人を好きになろうと努力していた時に
男性を好きになるとか
ときめくとかいうことは
まあ、なくても仕方ないにしろ

全くもって男性という生き物を信用できなかったは
残念ながら親父の影響も少なからずあるだろう。

もちろん今では
日本だけにとどまらず
海外でもいろんな生物学上の男性とも知り合い
お蔭様で心を開いて会話できる友人たちもでき(^^;

相変わらず
心の底から

男気があるな!!
こういう男になりたいな!連

って思う人は未だに2人くらいしか会っていないけれど
(それも皆還暦世代(笑)玲

それはある意味
女気があるな!(←ちょっと変な日本語だが)
っていう女性が
ある意味減っているのと同じわけで

ある種お互い様なわけで秊

本当に繊細で傷つきやすく
純粋で実はまじめなのは男なんだ!
(↑これもかなり偏った見方ではありますが・・・)

僕と一緒やんけ!(笑)

なーんて思ったりもして列
むしろ仕事なんかでは男と一緒にいたほうが
楽だなとか楽しいとか思えたりもするわけで

今は女だろうが男だろうがなんだろうが
人としてどうかで見れるようになったけど

俺の男嫌いったら 昔はひどかった怜

本当は男の子と遊びたくて
輪の中に入りたいんだけど
だけどどうしていいかもわからなくて。

男嫌いってより

だんだんと

負けたくない!っていう気持ちが増し・・・

あれ(^^;;

親父の話がぶっとびましたが

(軌道修正)

そんなわけで 5年前の秋
市役所から遺骨を引き取ってくれとお願いされた僕とおかんは
さいたまのとある市役所へ行った

“本当は無縁仏に行くしかなかたんですけど
戸籍をたどったら娘さんが存在してることがわかって
だめもとで連絡してみました。。。”

と。

(戸籍上は僕、間違いなく娘なんで。間違ってないです)
 

ここの役所の人は
本当に良心的な方だった。

もしこの人が頑張ってくれなかったら
親父が死んだことさえ
僕とおかんは知る由もなかった。

あまり私的なことで
これ以上市役所に迷惑はかけれないとは思ったが
一応発見時の状況や経緯を簡単に聞いてみた。

死後3ヶ月程度。。。
腐敗がひどく 白骨化も・・・
用意周到に準備された首吊り台・・・
近所の人が異臭で気がついたとかで。。。

聞けば聞くほど呆然とした。

しかし間違いなく辛いのはおかんのほうだ。

もしも自分の昔愛した人が・・・・とか

置き換えて考えるだけで
その苦痛がどれだけ尋常じゃないものかは
想像ができた。

だけどまだこのとき僕は
おかんがそこまで愛していたとは知らなかったから
もしかしたら平然といられたのかもしれない。。。

僕がしっかりしないと・・
そう思い 全く動揺することなく

涙を一滴も流さず平然と話を聞き続けた。

おかんもまだ実感もないのだろう・・・
事の非現実さにただただ話を聞くだけの僕たち。

遺書も何もなく
残されたものは

老眼鏡
カビだらけの免許証
そして
狭心症の処方箋の裏に書かれた
一面に中国語の文章


確かそれだけだったと思う。


“遺族がいるとわかると
損害費用など大家が請求してくる可能性がありますので
住んでいたアパートには行かないほうがいいと思います。
ドライブしますので遠めでみるだけにしましょう”

そういわれて
遺灰を胸に抱き
現場へ行った。

長いようで短いような
現実感のない15分ほどのドライブだった。

“あそこの部屋です・・・”

決して古くはない
いまどきのコーポのような外観に
ほんの少しだけ救われた気がした。

崩れ落ちそうなぼろぼろのアパートだったら
そこで最後に一人で・・・と思うと
耐えるに耐えられなかっただろう。

市役所を後にした二人は
僕が小学生だったころ
家族3人で毎年誕生日に来ていた
不二家レストランに行った。

僕が最初で最後に
親父を怒鳴りつけた現場だ。

誕生日だというのに
いつも人の接客だの態度だのに相当うるさい親父は
担当のウェイトレスに対して
場の雰囲気を台無しにするようなことをしてくれた。

まだ小学校の僕も
さすがに年に一度の自分の誕生日を台無しにされたことに腹をたて

テーブルの下で親父のすねを蹴飛ばし

“人の誕生日の日くらい そういうのやめてくれ! ”

そんなことをすごい剣幕で言ったと思う。

今考えてもくそ生意気なガキだが

さすがにおかんも親父も
あまりの僕の剣幕に
何も言い返せなかったのを覚えている。

そんな思い出のレストラン不二家で
おかんと何を話したかはもう覚えていない。

ただ

たわいもない思い出話をしながら

残された遺品を見て
親父は何を考えていたんだろう。。。

そんなことを思っていたに違いない。

なんとかして
親父の死をプラスにしようと思っていたのだろう。

後ろ向きなことは
二人とも決して言わなかった。

ただ、新しい彼氏と住んでいたおかんは
いきなり遺灰を持ち帰るわけにもいかず

その日は僕が持って帰ったのを覚えている。

大好きだった甘エビ、赤貝の缶詰、タバコ、酒・・・
そんなものを供えたのを覚えている。


あの日から僕は
生前何も親孝行ができなかった親父に対して
せめてしてあげられることはないか・・・
そんなことをいつも考えていた。

墓を作ろうとかも考えたが
学費を稼ぐために働いていた僕には
そんなお金はなかった。

なんとか安いお墓とか・・・

そうこう色々調べるうちに
散骨という可能性に出会う。

石原裕次郎さんとか多くの有名人が
好きだった場所や行きたかったところなどに
生前から散骨をしてほしいと遺言を残す著名人も多い。

金の面だけではないが

自然に帰したい
自由になって欲しい
そして
また違う形で地球に貢献してほしい

漠然とではあるが 
そんな希望を抱いていた僕は

いつか親父の大好きだった中国に連れて行く!

そう心に誓ったのだった。

僕と母がアメリカにいたときも
パスポートが下りずに渡米できなかった親父だ。
きっと生涯国外に出たことはないだろう。

だからどうしても
海外へ連れて行きたくなった。


あれから5年

ついに先日

遺品である親父の書いた中国語の意味を調べ

万里の長城へ散骨する日が来た。


なぜ万里?


それは僕もわからないが

唯一宇宙から目で確認することができる世界遺産とも言われる
万里の長城は

なんだか一番ふさわしいような気がしたのだ。

もちろん最終的には直感以外の何ものでもないのだが。


散骨用に細かく砕かれ
パウダーになっている親父の遺灰を
大事に保管していたおかんから受け取った

“全部なくなるのは寂しいから 半分に分けたよ”

そう母が言った。

僕の性同一性障害のカミングアウトをしてから
実際に母に会うのは初めてだったのだが
そのことについては
母は特に何も触れなかった。


もちろんその日同席していた僕の彼女には
初めて会うことになったのだが
相変わらずいつもどおり

おかんは自分のことをいつになく積極的に話してくれた(笑)

僕も彼女も

おかんのそんな性格には救われている気がする。

その日は銀座の沖縄料理で食事した。

僕がカミングアウトしたからもあるだおうか・・・

今まで母が誰にも話してこなかっただろう
親父とおかんのことを
初めて僕と彼女に話してくれた。

死んだ親父のことを

母は何のためらいもなく

運命の人・・・

そんなことを言っていた。

本当に愛し合っていたとも。

僕は正直驚いた。

僕はその日まで
申し訳ないが
自分自身のことを
愛のある二人の間に誕生した子だったとは
残念ながらあまり思えていなかった。

しかし

たとえ親父がどんな暴力を僕に振っていたにせよ
例えおかんが13歳の僕を置いて新しい男のもとへ行ったにせよ


僕は

そんなに愛し合ってた二人の間に生まれたのであれば

それ以上嬉しい報告はなかった。

おおげさかもしれないし

くっせーよって思われるかもしれないけど
はじめて親父を思うおかんの気持ちを聞いて
心のそこから

僕は生まれてきて良かったんだ連

そんな風に思えたように思う。


確かにおかんの中で

“時間”という魔法が

多かれ少なかれ 

おやじを
おやじとの時間を

美化させてはいるだろう。

本当につらかったことは上手に忘れてはいるだろう。

だけど何十年もたった今も

あの人と出会えて
あの人を愛せて良かった

そして

僕を生んでよかったと思っているのであれば

子供としてそれ以上に幸せなことはない。

今までも両親のことを恨んだことはなかった。
強がりでもなんでもなく
本当にいつも感謝の気持ちでいっぱいだった。

だけど

本当に本当に本当に全てのことを

水に流そう

そう無意識にだが思えたのは

おかんの言葉を聞いたこの時だったかもしれない。


今日の日記は
他人が聞いたら本当にどうでもいいことかもしれないが

30年親子をやっていて
はじめて!?
親子らしい会話をした
ある意味違う記念日にもなった。


そろそろ帰りの時間が近づいて来た時、
おかんは僕に
遺品として残っていた一面中国語の紙を
手渡してくれた。

“これしかないんだから 大切にしてよ!”

そう言ったおかんの言葉には
親父のこをと思う気持ちが
恥ずかしげもなく表れていた。


その紙一面を埋め尽くした中国語は
以下のようなものだった。


不責人小過、不発人陰私、不念人旧悪。
三者、可以養徳、亦可以遠害

功過不容少混、混則人懐惰堕之心、
恩仇不可大明、明則人起携弐之志

調べてみるとこれは中国の菜根譚という古典の中の言葉で

一つ目は他人への思いやりをうたったもので

小さな過失はとがめない。かくしごとをあばかない。
古傷は忘れてやる。
他人に対してこの三つのことを心がければ、自分の人格を高めるばかりでなく、人の恨みを買うこともない。

という意味らしい。(参照


二つ目は

功績と過失は、明確にしておくと。
もし、不明確にしておくと人間は堕落してしまう。
恩義と遺恨は、明確にしてはいけない。
もし、明確にしてしまうと、
離反するような心は呼び起こしてしまう。
つまり、上に立つ人間は、誰が見ても解り易いことは明確に
解しやすいことは曖昧にしておかないと
裏切りがおきますということ。
言い換えれば、活人の態度はいつもはっきりとしているし、
見えるのだ。(参照

という意味らしい。

これは僕にとって
何よりの親父からの遺言になった。

遺産が残るどころか借金しか残さず(笑)
気の利いた遺書も残さなかった親父かもしれないが

無意識でも意図的だったとしても
こんな言葉を親父として僕に残してくれたのなら
僕にこの言葉たちと出会わせてくれたのであれば

これ以上のことはない。

これ以上の遺言はない。

そう思った。


“そんなに好きだったのなら
別れた後、会いたいとは思わなかったのですか?”

そう僕のおかんに質問する彼女。

きっと女同士のほうが
よくわかることもあったのだろう。
二人とも目にうっすら涙を浮かべてた。

そしておかんは

“あの人は自殺という最悪のことをしてくれた
愛した人が 愛する人が
自ら命をたつ自殺なんて
これ以上に最悪のことはない

でもそれは同時に

最高のことをしてくれた
最高のプレゼントとをくれたということでもある”

そう言ってのけたおかんの力強さは

僕と彼女の心を

一気に食べつくしてしまった。


僕が受け継いでいると思われるとてつもない強さを
おかんが垣間見せてくれた瞬間だった。

そのせりふを聞いた僕は

“間違いねー
俺、この人の子だ!!”

そう改めて確信してしまった。

“あれは究極の愛”

昔のことが多少美化されていたとしても
何十年もたった今 
今という時にも
そう呼ぶことのできる愛の元に
生まれてこれたのであれば

子としてそれ以上の幸せはない。

そして

こういう形でしか母と僕のもとに
帰ってこれなかった親父だが

きっと戻りたいと思ったからこそ

無縁仏でも
弟のところでもなく

俺らのところに来たのだろう。

そう思うと

行き場を失った “悔い”ではないにしろ
僕の中でつっかえていた何かが

少しだけ癒される気がした。

愛してやまなかった母のもとに半分と

生涯あこがれ続けた中国に半身を置けた親父は


まんざら不幸者ではないだろう。


中国のしきたり通り
紙に書いたお金を今夜燃やしてあげよう。

あの世で困らないようにする中国の風習だとか。

地上にいた時のように
絶対にもうお金で困らないよう(笑)

10億円くらい送っとこうか廉

これで
大好きな甘エビとブリ照りでも食べながら
一升瓶とショートHOPEでも吸いながら
中国全土を旅してくれれば
僕も光栄です。

親父のために習った中国語は
ちょっとしか役にたたなかったけど

一緒に散骨まで行ってくれる大切な人ができたのは
きっと親父のおかげもあると思う。


親父の子で
良かった。

P4095913.JPG


2007年4月9日

万里の長城にて散骨完了

photos by keijiro

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